野家啓一『物語の哲学―柳田国男と歴史の発見』・クリストフ・コッホ『意識の探求―神経科学からのアプローチ (上)』

昨日から図書館業務が再開したので、論文を読むのに疲れた頭を休める為の本を探しに図書館へ。確か春節の休み前に行って以来なので、3週間ぶりだろうか。久しぶりに歩く図書館までの道は、ほとんど雪も溶けており、底の磨り減った靴でも十分だった。


今日借りてきたのは、野家啓一物語の哲学―柳田国男と歴史の発見』と、クリストフ・コッホ『意識の探求―神経科学からのアプローチ (上)』の2冊。野家の著書は休み前に、増補された文庫本を返したのだが、まだ書架に戻っていなかったので、仕方なく古い版を借りてきた。休みを挟んでいるとはいえ、明らかに手抜き作業だ。まだ、ソシュールも戻っていなかったし、こういうことされると困るんだけどな…

物語の哲学―柳田国男と歴史の発見

物語の哲学―柳田国男と歴史の発見

意識の探求―神経科学からのアプローチ (上)

意識の探求―神経科学からのアプローチ (上)


そういえば、久しぶりに、専門とは異なる本をなぜ読むのかと聞かれたので、その理由をここで考えてみたい。まず、今日借りた2冊の本(特に後者)が、自分の研究にどのように関係するかと問われると、論文に直接反映されることはないと答えるしかない。ではなぜ読むのか?答えは簡単、読みたいからである。


大学に入学した頃の自分は、外国史を専攻したかったのにも関わらず、日本史で入試を受けたという「劣等感」から(外国史より日本史の方が面白かったというのもあるが、それ以上に、外国史より日本史の方が点数が取りやすかったから)、専門に関わる本だけを読み漁った。今から振り返れば、当時の自分にはそれ以外の本を読む余裕がなかったのだと思う。そんな状態にやるせなさを感じてはいたものの、それがおかしいと決定的に気付かされたのは、博士課程に進学し、Iさん、先輩のT氏、後輩のO氏の3人に「出会って」からであった。同世代である3人と話しをすることが自分にとっては刺激の連続だったし、また己の無知(もしくは、教養のなさ)を自覚する良い機会だった。そういう意味でも、この3人と「出会えた」ことは本当に決定的だったし、幸運だったように思う。最初は己の無知を「隠す」ために、そして知識を吸収するために専門以外の本にも手を伸ばすようになっていき、今ではそんなことに関係なく読みたい本を読むようになってきている。今でも、読むべき本なのに読んでいないものはたくさんあるが、それは手を伸ばしたくなった時に、手に取れば良いのではないかと思っている。むしろ、そういう本にはそのうちに手が伸びるだろうという変な確信すら持っている。


こんな読書歴を持っている自分は、専門の本だけを読むという人の気持ちもわかる気がする。以前の自分がそうだったように、恐らく余裕がないのだろう。しかしながら、そのような読書だけで、作られる歴史観はどうしても表層的なものにしかなり得ないのではないだろうか。なぜなら、歴史学の対象は「人間の歴史」全てであり(そういう意味で、人間が「不在」の環境史(もちろん、大部分の環境史はそうではないだろう)は、歴史学ではないという立場を自分はとる)、そこに知らなくても良いことなど存在しないと思うからだ(高校時代の英語の先生は、どの単語に対しても「これは覚えていて損のない単語です」と言っていたが、恐らく歴史学にとっては、どのような事柄も「知っていて損のない」事なのではないか)。日本の歴史学界には「理論」がないと言われて久しく、そのような傾向に安住してしまいがちな自分がいる一方で、「理論」のない歴史学は面白くないと感じる自分もまた存在している。それでは、このような矛盾を打破するために自分は何をすべきなのか?とても曖昧な表現だが、「歴史学を内と外から見ること」で自分の抱えている矛盾を少しでも解消できるのではないだろうかと夢想している。しかしながら、歴史学の「外」とはいっても、自分には歴史学に関係のあるテーマの本ぐらいしか思い浮かばないので、特に外からの視点を得るためには、当分時間がかかる(もしかしたら、一生無理かもしれない)ことだろう。


偉そうな、にもかかわらず曖昧模糊とした感想しか書けなかったが、今のままでは、単なる負け犬?の遠吠えでしかない。結局は自分が研究することでしか、書いた事を裏付けることができないんだよね。


追記.
色々理屈っぽいことを書いたけど、言いたかったのは、もともと歴史学に関する事にしか興味を持てなかったけど、興味という点に限れば、今は歴史学も多くの興味の中の1つになったということ。こんなだから、自分の専門で自分のしたいことができるのか悩んだことは1度や2度ではなかったけど、悩みながらもこの分野でやっていくことを決めたのだから、これで結果を出していきたいと思っている。