野家啓一『物語の哲学―柳田国男と歴史の発見』

野家啓一物語の哲学―柳田国男と歴史の発見』を、ようやく読了。相変わらず、流行に疎いな…


この本のテーマは、「物語る」ことそのものである。歴史学に関して言えば、「始め」と「終わり」を設定することによって歴史過程を俯瞰する立場(「歴史のマクロロジー」)を放棄し、歴史叙述の出発点を自分自身に求める(「歴史のミクロロジー」、これは記憶や想起によって支えられる「物語行為」を基本単位とするもの)立場から論が進められている。


著者の基本的見解は、自身によって以下の6つにまとめられている。(p147〜148)

(1)過去の出来事や事実は客観的に実在するのものではなく、「想起」を通じて解釈学的に再構成されたものである。[歴史の反実在論]
(2)歴史的出来事と歴史叙述とは不可分であり、前者は後者の文脈を離れては存在しない。[歴史の現象主義]
(3)歴史叙述は記憶の「共同化」と「構造化」を実現する言語的制作(ポイエーシス)にほかならない。[歴史の物語論]
(4)過去は未完結であり、いかなる歴史叙述も改訂を免れない。[歴史の全体論ホーリズム)]
(5)「時は流れない。それは積み重なる」[サントリー・テーゼ]
(6)物語りえないことについては沈黙せねばならない。[歴史の遂行論(プラグマティックス)]


以上の見解は、この本を読む限り概ね納得できた気がする。それではこれを踏まえた上で、以前から人口に膾炙されている「現在、日本の歴史学界には理論が存在しない」「研究の個別分散化がすすんでいる」という問題(それが本当に問題であるのかも含めて)はどのように考えるべきか?機会があれば、ここで考えてみたいと思う。