二宮宏之ほか編『歴史を問う〈4〉歴史はいかに書かれるか』

本日以下の4つを読み終え、『歴史を問う〈4〉歴史はいかに書かれるか』を読了。
 

 成田龍一「当事者性と歴史叙述―1950年代前半の経験から」
 櫻井進「伝統への回帰―デリダヴァレリー平泉澄
 荻野美穂「ジェンダー論、その軌跡と射程」
 高橋哲哉「「歴史の他者」が「正義」を求めるとき―「歴史のヘテロジー」への問い」


「歴史はいかに書かれるか」のサブタイトルとはうらはらに、「書く」ことへの記述はほとんど見られず、歴史家の立脚点をどくに置くのかということが重点的に述べられているという印象。無論、「歴史家」が作品を「書く」時には、どこかに立脚しているはずであり、その問題を考えることは重要であるし、それだけで大きな問題になり得る。しかしながら、「歴史家」が文献史料を扱う際には、まず、誰かが史料を「書き」、「歴史家」がそれを「読み」、作品を「書く」と言ったように二重に「書く」行為を経過する。そのため、「書く」行為を考察することも、同様に歴史学にとって重要であると思う。と言うより、本巻の内容は、サブタイトルにそぐわないのではないだろうか。
なお、本シリーズ全巻に付されている「序にかえて」では、この巻について以下のように書かれている。

とりわけ「史実とはなにか」という問いを中心にすえつつ、歴史の作法(さくほう)についての批判的回顧と新しい可能性の探索をこころみ…(醞ページ)

   

それにしても、またアリストテレスを後回しにしてしまった。今度こそ、『アリストテレス全集12 形而上学』に取り組まなければ。