月本昭男ほか編『歴史を問う〈2〉歴史と時間』

 一昨日の明け方、眠い目をこすりながら、月本昭男ほか編『歴史を問う〈2〉歴史と時間』を一応読了。一応と言ったのは、自分の能力の無さから、内容をわかった気にすらなれなかった論文があったからである。

歴史を問う〈2〉歴史と時間

歴史を問う〈2〉歴史と時間

 特に、時間というテーマで興味深かったのは以下の論文。
佐藤正幸「視覚化された時間・共時化された時間―紀年認識の発達を歴史年表に探る」
熊野純彦「〈過ぎ去ったもの〉をめぐる思考のために―追憶と傷痕とのあいだで」
野家啓一「時は流れない、それは積み重なる―歴史意識の積時性について」

 佐藤論文は、東西における年表の歴史から、歴史観の変遷、および東西の歴史意識などの問題に言及する。特に、現在欧米ではほとんど年表が見られない原因は(知らなかった)、「歴史の授業はスキル(史料から過去を推測したり再構成する術)を教えるものであって、ファクト(歴史的出来事)を憶えさせるものではないからだ」という教師の言葉や、「歴史年表は作るもので、使うものではない」という歴史研究者の言葉に尽きると思う。確かに、最近年代の確認(西暦との対応など)以外で、歴史年表を使うことってない。但し、東西の年表に対する認識から、東の歴史学は規範的であり、西の歴史学は認識の学問であると結論付けるのは、やや勇み足か。

 熊野論文と野家論文は、前者が反「物語り論」の立場から、後者は「物語り論」の立場からそれぞれ、時間について言及したもの。両者を一緒に読むことによって、それぞれの立場からの時間への認識をみることができる。但し、先述したとおり、前者は自分の能力不足から、一度読んだだけでは歯が立たなかったので、再読するつもり。後者の時間認識(積み重ねられたガラス板のイメージ)は非常にわかりやすく、時間は流れるというイメージからの決別を宣言するものである。また、歴史的過去は、「知覚」されるものでもなく「想起」されるものでもなく(つまり個人が過去の経験を思い出すのとは異なる)、「考えられたもの」であるいう発言は、個人的経験と歴史過去との違いを時間に軸を置いて論じたものであり、興味深い。但し、氏の論を読んでいて、形容しがたいジレンマに襲われる。これでは批判ではなく、ただの感想である。これをはっきりさせられた(言葉にできた)時、はじめて氏の論を理解できたと言うことができよう。


 ちなみに、本書のテーマは「歴史と時間」であり、「序にかえて」には以下のように紹介されている。

古来「歴史」の二つの眼であるとされてきた「時間の学」=年代学と「空間の学」=地理学それぞれの「歴史」にたいする関係について再考する。(醞ページ)

 ここにも記されているように、歴史について叙述する時、どうしても時間との関わりからは逃れられない。但し、「歴史を問う」というシリーズに収めるからには、ただの分野研究に留まらず、そこからより普遍的?な視点に立つ論点を導き出す、ないしは提起するという姿勢が全ての論文にあればと、個人的には惜しまれる。


本書を読んで、歴史学を専攻しているにもかかわらず、これまで「時間」という概念に無自覚過ぎたと反省。取りあえず、本書所収の読書案内を参考に、少しづつ自覚していくことにしよう。