難しい文章

最近、ある本を読み始めたのだが、文章が難解で読みにくい。もちろん、専門的な話をしているので、用語や内容が難解なのは理解できるのだが、この本の場合、文章だけで、専門外の読者の多くは挫折してしまうのではなかろうか。


宮崎市定は、「パリからの手紙」(初出1961年、『中国に学ぶ (中公文庫BIBLIO)』所収)の中で、

学者の仕事は……いわゆる通俗化を図ることも大切でしょう。しかし多少はむつかしくとも、読者に辛抱してもらわねばならぬ場合があります。つとめて平易に書こうにも、やはり学問的な話には、避けられないむつかしさが伴うものだからです。そして長い目で見ていますと、著者や出版社がそう心配するほどのことはなく、一般読書力の水準の方がかえってずんずん向上しているのではないかと思います。

と書いている。宮崎の文章は、大学に入ってすぐの自分にとっても、論文とは思えぬほど読みやすかったように記憶している(内容が理解できたかは、別の話)。最近、内容以上にその文章で専門外の読者を拒絶している論文や著書を、しばしば目にする。「学者」に求められているのは、恐らく研究を難しい文章で発表する事でもなければ、市民に媚びることでもないだろう。難解な内容を平易に叙述し(それは、内容を自分の中で完全に消化(理解)していなければ不可能であろう)、その成果を市民にも還元すること(即物的である必要はない)。これこそが、改革(改悪)と喧しい現在の社会において、「学者」や「学者」を育てる機関に求められていることではないのだろか。


「言うは易し、行うは難し」。このメモは、意味もなく小難しい文章を書きたがる自分への戒めだったりする。



追記.(2008・2・21)
自分の周りには、読みやすい文章を書くことができる人が、何人もいる(と思う)。その中でも、自分が好きなのは、ある人が書く「柔かい」文章なのだが、これは、人を拒絶するようなこともなければ、変な高揚感もない。まだ一本しかその人の文章を読んだことはないが、このスタイルを崩さず論文を書くことができれば、少なくとも文章だけで人を拒絶させない(ゆえに、広く読まれる可能性を持つ)研究になるのではないだろうか。そんな文章を目指して、努力しないとね。